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私の「フェアプレイ」論

溝口紀子に聞く 

私の「フェアプレイ」論
 
 静岡文化芸術大学 文化政策学部国際文化学科 准教授、
バルセロナ・オリンピック女子柔道52㎏級銀メダリスト

「強育」「競育」「共育」
「脅育」「恐育」「狂育」


──選手としてはバルセロナ・オリンピックでの銀メダル獲得、さらに指導者としてはフランス・ナショナルチームのコーチなどのご経験を経て、スポーツの価値観に対しても、さまざまな思いがあるかと思います。価値観の多様化といわれる今日にあって、スポーツは何に、その価値を求めていけばよいのでしょうか? 

溝口
 今、スポーツに求められているのは、教育的な価値ではないかと思っています。スポーツの教育には、「強育」「競育」「共育」の3つの“育” があります。まず、「強育」とは心身の強化という意味での教育、次に「競育」とは競う厳しさ、競う楽しさを学ぶという意味での教育、そして「共育」とは仲間はもちろん、指導者、保護者らのサポートがあってこそという意味での教育、自分1人の力だけでは決して強くはなれないということです。このなかで、フェアプレイの教えは、どこに属するかと考えてみると、「競育」「共育」にあるのではないかと思います。

  それに対して、「脅育」「恐育」「狂育」という3つの“育” もあることを忘れてはなりません。いわゆる読んで字のごとく、脅す、恐怖心をあおる、さらに練習中、いまだに水を飲ませないなどの非スポーツ科学的な指導がこれに当たります。まさに、アンフェア以外の何ものでもありません。昨今、社会問題にまで発展した体罰もこれに含まれるといえるでしょう。選手を自らの支配下に置き、有無を言わせない強制的な指導…。いい換えれば、結果をすぐに求めようとする拙速な指導では、本当の意味での人間教育はできないのです。

──人は育たないということですね。


溝口
 一方、「強育」「競育」「共育」による指導というものは、結果はすぐには出ないものです。指導者は、決して結果を先走ってはなりません。むしろ、辛抱強く耐える努力、見守る努力をしなければならない。老子は、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」と述べています。指導者の“指導力” とは、まさにこの言葉に集約されているのではないでしょうか。

  勝って学ぶこともあれば、負けて学ぶこともたくさんある。どちらかといえば、人は負けを受け入れることによって、成長することのほうが多いのではないでしょうか。実際、私自身もそうでした。その負けが、結果的に「生きる力」になっています。だからこそ、指導者は、時間をかけてじっくり教え導いていく、“醸成” させていくことが大事になるのです。「生きる力」をどれだけ育むことができるか、です。

──なるほど。裏を返せば、辛抱できない指導者が体罰に走りがちになるということがいえる、と。


溝口
 選手の“やる気スイッチ” というのは、選手自身が入れるもので、指導者が入れるものではありません。すなわち、指導者の役割というのは、選手がそのスイッチを自らの意思で入れるよう、仕向けていくことにあるということ。ところが、指導者が強引にスイッチを入れようとするから…。


──そのスイッチの入れ方が、指導者によっては体罰という形で表れるということですね。それはまさに破壊的なスイッチの入れ方である、と。


写真提供:JMPA