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私の「フェアプレイ」論

 

溝口紀子に聞く 

私の「フェアプレイ」論
 
 静岡文化芸術大学 文化政策学部国際文化学科 准教授、
バルセロナ・オリンピック女子柔道52㎏級銀メダリスト

 



体罰問題を考える


溝口 体罰に走る指導者は、スポーツの価値観を、実は“勝つこと” という1点にしか見ていないにもかかわらず、「教育」という言葉を利用して、都合よく使い分けているのではないかと思うことがあります。そういう意味では、これも“フェア” ではないですよね。選手には立派なことを言いながら、一方で、しっかりと自分の逃げ道だけはつくっているのですから。また、本来は、スポーツに教育的な価値を求めて指導していたにもかかわらず、知らず知らずのうちに、“勝利至上主義” に傾倒してしまったというケースもあるでしょう。これこそまさに本末転倒です。勝つためには手段を選ばず、ドーピングなどに関してもそうですが、体罰を容認した結果、たとえ勝ったとしても、そこに一体、何の価値が見いだせるのか。単なる名誉でしょうか。
  もちろん、目的をもって勝利を目指すことは大事です。しかし、目指すための方法を間違えてしまうと、その指導というのは、途端に教育という名を借りた指導者の我欲にすぎなくなってしまいます。

──勝つために、何度も修羅場をくぐってこられた先生の言葉だけに、説得力がありますね。


溝口
 体罰は、明らかにハラスメントです。指導者と選手とでは、権力関係が対等ではありません。しかしながら、暴力に対する人権意識は同じ。それこそフェアでなければならない。この人権意識の同権ということが、権力関係という意識の慢性化によって、指導者の思考のなかから抜け落ちてしまっているのです。

60 歳以上の指導者の方々を対象としたある講演会で、「体罰を受けたことがあるか」と聞いてみたところ、200 人ほどの参加者のうち、約90%の方が手を挙げられました。続いて「体罰を容認するか否か」と聞いてみると、過半数の方々が容認すると挙手されました。体罰を受けてきたから、強くなったと思われているのです。そういう意味で、時代がそういった認識を育んでいったという側面は否定できないでしょう。しかし、繰り返し述べるように、体罰には何のメリットもありません。ちなみに、私たちの年代では、体罰容認は半分以下になります。つまり、世代間格差というのでしょうか、年代によってその認識は全く異なっている、ということです。

──その意識革命は、先生方の世代に期待しなければなりませんね。


溝口
 今がちょうどパラダイムシフト(転換期)ではないか、と。脱・体罰とまではいかないかもしれませんが、卒・体罰を目指すのが、我々の世代の重要な役割ではないかと思っています。そういう意味で、女子柔道の強化選手が暴力を告発する声を上げたのはよかった。あれが、男子であれば、「お前たちは根性がない!」で一蹴されてしまいますからね。いい換えれば、みんなが人権意識にようやく芽生え始めているということだと思います。


──最後に、例えば、先生が子どもたちから「フェアプレイって何?」と質問をされたら、どう答えられますか? 


溝口
 勝っても負けても、最後まで戦い抜くこと。それが相手に対する敬意でもあります。正々堂々、フェアプレイの精神で戦うことが、最終的に自分自身を高めてくれる大きな原動力になるのではないか、と思っています。


 

 (プロフィール)
みぞぐち・のりこ
1971 年7月23 日生まれ。静岡県磐田市(旧福田町)出身。元柔道選手。バルセロナ・オリンピック女子柔道52 ㎏級銀メダリスト。得意技は内股、寝技。日本人女性初のフランス代表柔道チームコーチ(アテネ・オリンピック)を務める。フランス語が堪能な国際人であり、スポーツ文化論の研究者。現在は静岡文化芸術大学 文化政策学部国際文化学 准教授。
(注)プロフィールは、コーチング・クリニック 2013年8月号発行時点のものです。